【累々舎】京庵・お題04

累々舎

http://ruiruisha.hanagasumi.net/

夏の日

――どこかで、微かな風鈴の音がした。

遥か頭上の、南の海を思わす濃いブルーの青空に広がる、どこまでも高く盛り上がる入道雲に隠れもせず。
嫌になるほど元気に輝く太陽が、舗道のアスファルトに陽炎を生む勢いで、飽きもせず灼熱を叩きつけている。
その光源と全く同じ眩さを宿した目を、薄くして。
頬骨のあたりに流れ落ちた汗を手の甲で拭いながら、京は天を仰いだ。

辺りの住宅街は静まり返っている。
この暑さで、誰しもが家に閉じこもっているのだろう。
時折響く、渇いた蝉の声。
その、うだるような熱気のどこにも、風の気配はない。

……幻聴、だったのだろうか。
一度だけ聞こえた涼しげな音色は、ここにはない、涼を思い出させて。
京は忌々しげにチッと鋭く舌打ちを鳴らし、僅かに背を丸めて再び歩き出した。
――多くの人間が参るような暑さも、京は嫌いではない。
人並みのゆうに倍以上は頑丈だし、これ以上の暑さの中で闘うことも多いのだ――まあ、粘りつくような湿気を伴う点だけは、この国独特のものかも知れないが。
だから京の忌まわしい気分の原因は、別のところにある、訳で。

チリン、と今度は確かにはっきり聞こえて。
京は伏せがちだった眼を前方に据えた。
地表の揺らぎが見えるような舗道の、ゆるい下り坂の中央から――現れたのは。
京の注意を引いた可憐な音色とはかけ離れた、そして涼しいどころか見る者を凍てつかせるような冷気を背負った赤い髪の男、八神庵だった。

庵の姿を目にした途端、京は自然に足を止めていた。
そうして、微妙に唇を歪める。
……何でこんな時に出て来るんだ、とは思わなかった。
京の都合をわざわざ考えるような男ではないし、それに京も、心の何処かでは、いつでも彼の来訪を望んでいるからだ。
ただ、今現在の京は、それを素直に喜べない状況、で。

そんな京の困ったような心境など、庵は無論、気にかける訳もなく――気付いた節もなく。
陽炎が生み出した白昼夢のような全貌をあらわにし、コツ、と一音のみ靴底を鳴らして立ち止まった。

弁慶よろしく仁王立ちする庵と京の間隔は、きっちり、いつもの距離だった。
KOFの試合で取る、開始の間合いと同じ、距離。

暫し無言で、互いに凝視し合う。
――暑い。
互いを見据える目線も熱を孕んでいるが、日差しも、また。
氷雪の如き気配を携えている庵だが、灼けた熱は彼の上にも例外なく降り注いでいるようで。
相も変わらず色の変化は見られぬ、透き通るような白い面差しの縁を、チラチラと光が踊っている。
まるで万年雪のようだ、と京は思った。
己とは比較にもならないが――コイツでも汗かくんだな、と少し物珍しさを覚えた、から。

「……で? こんな真夏日に何の用だよ、八神?」
判りきったことを、訊ねてみた。

案の定、庵の目が吊り上る。京を睨む、赤い髪に遮られていない左目の光彩がキュッと引き絞られ、三白眼を模る。
いつもより更に、沸点が低い。この気温のせいか? ……そう考えて、京はくっと笑みを噛み殺した、が。
「今更判りきったことをほざくとは、暑さでとうとう脳が溶けたか」
即座に返された嫌味に、京は途端に顔を顰めた。
「これから酷使しなきゃなねぇってのに、溶けてたまるかよ」
京の言葉に、庵が僅かに柳眉を寄せる。
全く意味が判らないって顔だな、と京は読み取ってしまい。そのせいで、余計にげんなりした気分を味う破目になった。

真夏の、どデカイお祭り騒ぎ――KOFは終わったが。暑さは変わらず、暦もまだ八月。
お盆は過ぎたが、まだまだ、夏は続いている。
そうして、京の予定も詰まっていた。とても、嬉しくない内容で。

思い返して、京は盛大に溜息をつき。
顔を更に顰め、額に貼りつく長めの前髪をかき上げながら口を開いた。
「しばらく、てめぇの相手はしてやれねーよ。……ガッコ、行かなきゃなんねーからな」
「……学校? 呼び出しでもくらったか」
小馬鹿にしたように切り返してくる庵に、京はフンと鼻を鳴らした。
「素行悪のてめぇと一緒にすんなよ。……補習だよ、ホシュウ!」
京の回答を聞くなり。
非常に珍しいことに、庵の目の縁が僅かに広がって、音が聞こえそうなほど一度だけ瞬きをした。
そして初めて聞いた言葉を反芻するかのように、口の動きだけでその単語を呟いたのを、京は見逃さなかった。
どうやら庵は、休み中に行われる補習を知らないで済む学生時代を送って来たらしい。
そう思い至って、京の苛立ちが、増した。
……だから。
「つー訳だから、てめえに構ってる暇はねぇんだよ。帰んな」
頭の脇に上げた手をひらひらと振り、京は足を進めて庵の脇を通り過ぎ、かけたところで。
「――待て。……貴様、逃げる気か」
横目で睨み据えられた。
「あ? どっちかって言えば、逃げたいのは補習の方だけどな……」
「ならば闘え! ここで死ね!!」
「ジョーダン。俺がお前に負ける訳ねーだろ。今日の補習受けなかったせいで卒業逃したら、どう責任とってくれるんだよ」
庵は薄く笑みを浮かべた。
スッと顔の前に掲げた手の平に、紫炎が浮かぶ。
「卒業も留年も心配しなくて済む場所へ送ってやる」
「……あっそ……」
内心項垂れる気分で京は呟いた。
いっそものは試し、奇襲的に大技をぶちかまして撒いちまうか、と考えかけたところで――もっと良い案を思いついた。
「じゃあ、お前も着いて来いよ」
「――何だと……?」
思いもよらぬ京の提案に、庵が眉を寄せる。
「俺の補習が終わるまでガッコで待ってろよ。補習の後なら、付き合ってやってもいいぜ」
ニッと不敵に笑いやると、庵が不機嫌に唸った。
「何故、この俺が貴様を待たねならん……」
「あのなぁ……、俺もてめぇに付き合う義理はねーんだぜ? てめぇが俺を待てないってなら、話はここまでだ。
晴れて卒業する日まで、てめぇとは何があっても絶対に闘わねぇよ、俺は」
黒眸に強い意志を灯らせて京が庵を見据える。
庵がギリ、と歯噛みした。
――卒業、だと……?
卒業シーズンにはまだ半年強の期間がある。
それ以前に、卒業日数が足りないとかいう愚にもつかない理由で二年も留年している男が、今年卒業できる見込みなどないに等しいようなものではないか。
庵自身も決して我を譲らないが、京も同様の性質であることは知悉している。
絶対、と口にした以上、それが行使されれば。
庵がどう煽ろうが強引に挑もうが、京は勝負を受けないだろう。
となれば、今日少し待つぐらい、天秤にかけるまでもなく些末な時間に過ぎぬが。
京の口車に乗せられるのも癪で、庵は不快感を押し殺して口を開いた。
「……学校というものは普通、部外者は立入禁止だろうが」
京は得意げにニヤァと笑った。
「ああ、それなら平気だぜ。ウチのガッコ、生涯学習コースってのがあってさ。休み中は特に、色んな年齢層の奴が私服で出入りしてるから、部外者かどうかなんていちいち確認されねーよ」
聞くなり、庵は忌々しげに舌打ちを鳴らした。
反対に京は、自分の思惑通りにことが運ぶ小気味よさに、ニヤニヤと笑んでいる。
――やがて。
「いいだろう。その代わり、終わった後は覚悟しておけ――今日こそ必ずケリをつけてやる……!」
雷雲のような不穏さを滾らせて庵が目を光らせた。
それさえも心地良く、京は能天気に笑った。
「ああ、いいぜ。……じゃ、行こうぜ」
庵の腕を掴み、京は歌うように歩き出した。


「――4時か、5時前ぐらいには終わるからよ。八神、どこにいる?」
図書室か自習室が無難だけど、と京は続けた。
「……適当にうろついてる」
京は少し考え、携帯を取り出した。
「んじゃ、終わったら連絡するからよ。……八神、ケー番は?」
「……図書室に、いる」
不快げに柳眉を吊り上げ、庵は投げやりに言った。
「あっそ。図書室は3階――そこの階段上がって、南側のつきあたりだ。ちゃんと待ってろよ。でないと金輪際、てめぇの相手はしないからな!」
ビシッと指を突きつけて再度釘を差すと、京は教室へと走り去っていった。
その背を、横目で見送って。
庵は木製の靴箱が並ぶエントランスを眺め……、小さく嘆息をこぼした。

振り返っても特に何も思いつかないくらい、庵は淡々とした学生時代を過ごしてきた。
単位が取得できる程度で通学し、誰とも関わらず――思い出らしきものも、ない。
にも拘らず。
当時は何も感じなかった校舎の風景のそこかしこに、懐かしいような気分を掻き立てられるのは何故なのか。
「……バカバカしい……」
自らの心境を切り捨てるように呟き。庵は図書室へと向かった。

天井に届く木製の棚が居並ぶ図書室は、なかなかに広かった。
蔵書の為なのか、利用者も、それを迎えるはずの管理者的な人物もいないのに空調が効いている。
庵は適当に本棚の合間を巡って、本の背表紙を流し見した。
ひんやりした空気に含まれる、古書独特の――懐古を誘うような匂いに触発されたのか、ふとその視線が一冊の本の上で止まった。

分厚い、ハードカバー仕立てのシリーズ物の一冊目。
幼い頃……、確か小学生ぐらいの時、提出する感想文のため、課題図書の中からたまたま選んで読んだ本だった。
――ただ、その本は。
庵の琴線に、触れるものが、あって。
エンボス加工された金文字のタイトルを暫し眺めていたが。
庵はそれを手に取り、窓際の四人掛けテーブルへと移動した。


温くない内容と、たっぷりと出された課題を抱えて補習を終えた京は、それでも勢いよく教室を飛び出し、図書室へと走った。
ドアを開ければ、未だ苛烈さを失わない西日が図書室をオレンジ色に染めている。
人気のなさに一抹の不安を覚えながらも京が歩を進めると。
テーブルに片手を投げ出し、もう片方の折った腕を枕に、眠りこける庵の姿を見つけた。
傍らには、広げたままの本。
夕陽をうけてなお、白さが際立つ庵の寝顔はとても穏やかだったが――何処か、寂寥の翳も帯びていて。
京はそっと投げ出された方の手に指を絡めた。
その感触と温度に、冷えた白い指先がピクリと動き。
庵がゆると瞼を上げた。
昏い朱色の瞳孔が京の顔を認めるなり、瞬時にスっと縦に細まって鋭い煌めきを放つ。
さっきまでの寂しげな面影など微塵も感じさせない、孤高を矜持とする獣の、眼。
覚醒と同時の切替の早さに、京は少し苦笑をもらして。
せめて、こっそり絡めた指を振り払われたくなくて、広げられた本の縁を空いている指で叩いた。
「何の本、読んでたんだ?」
庵の視線が本に注がれ。その眼差しが、文字の遥か向こう側を見るような透明感を宿した。
「――『ライオンが力を奪われた時、ワシが自由を奪われた時、ハトが連れ合いを亡くした時、みんな哀しみのあまり死ぬという』……」
呟くように庵の口から流れ出た一節に、京は怪訝と眉を顰めた。
「何……?」
庵の顔を窺い見たが、何の感情も読み取れない無表情で。
返らない応えに、京は本の縁に記されている本のタイトルを読んだ。

それは、児童書向けでもある、有名な動物記だった。
一巻の第一稿は、京も読んだ覚えがあった。
カランポーの王たる、狼の話。
庵が口にしたのは、その狼が息絶えた時の――作者の情感だった。
何故、その一節をわざわざ読み上げたのか……。

庵の心情が知りたくて、京は庵に顔を戻すと、庵は首を曲げて背後の窓の外を見遣っていた。
斜光に眩しげに目を細め。
相も変わらず、その無表情で厳しい横顔からは何一つ読み取れない……、が。
陽に透けるような色をしながら底の知れない何かを宿した双眸は、捕えられた狼の王が最期にかつて自分が支配していた大地を遠く望んだ眼と――同じように見えて。
京は絡めた指を深くして、その手を包むように握りしめた。
「……な、八神。どっか遠く……、海にでも、行かねえ?」
庵の光彩が京の方へと動く。
長い朱色の睫毛が淡い影を落とし、倦むような印象を生んでいた。
「――何だと? ……今更、命乞いか」
椅子の上で庵が背筋を正し、張りつめた気配を放出させた、瞬間。

――チリン。

可愛らしい、風鈴にも似た音を立てて、庵のパンツのポケットから、小さな赤い物が床に落ちた。
それを、目で追って。
「……御守り……?」
京は唖然と庵を見遣った。
鈴の付いた、貝のように可愛らしく膨らんだ、巾着状の御守り。
庵はバツが悪そうに顔を顰め、床のそれを掬い上げてポケットにしまい込んだ。
誰から受け取ろうが、到底そんなものを所持するように思えぬ男が。
……そういえば、先週はお盆だったか、と京は思い出した。
確か庵には、少し歳の離れた妹がいたな、とも。
京は心の中で、その会ったこともない少女に礼を述べ。庵にニコリと笑いかけた。
「行こうぜ、庵。……どうせここいらじゃ、存分にやりあえねぇだろ」
悪戯っぽく空いた手を掲げ、一瞬だけ紅蓮の炎を揺らめかせて空に散らす。
庵は薄くした眼差しでそれを眺め。
ふと、心底の何かを断ち切るように、目を閉じた。
それはほんの一瞬のことで。
再び切れ長の双眸が開いて京を見据えた顔には、酷薄だが、自嘲ともとれるような淡い笑みがあった。
「……いいだろう。ただし、交通費は貴様持ちだ」
「いいぜ、別に」
京は心中に蟠る形のない不穏な思いを吹き消すように満足げに笑い。つと、京は庵の顎を捉え、口を寄せた。
「――果ての果てまで、一緒に行こうぜ」
吐息めかした京の囁きを。
庵は冷たく鼻で一笑に付した。




お題:距離感(Pola star
<< back||TOP