久遠 〜Eternal day after battle day〜
寒い日、だった。
五階のマンションの窓から見下ろす、さして見栄えのしない町並みにもうっすらと積もった雪が残っている。
昨日の夕方から夜半にかけて首都圏内に降った雪は、今はもう止んでいる。
雪景色、なんてものを作るほどの降雪量ではない。
街は溶けた雪で濃い灰色に濡れそぼれ、空は未だに雲が多く、灰色だった。
冷えた空気は澄んでいた。そしてとても寒かった。
……★……☆……★……☆……★……
所々剥げた赤い塗装の壁のそこかしこには、無数の派手なチラシが貼り付けられていた。
その壁に挟まれたライブスタジオの狭い階段を、上下左右いっぱいの体で降りて行き、突き当たりのドアを開けて首を縮めながら内部へと足を踏み入れた七枷社は、目を丸くした。
小さな受付カウンターの向かい、役目としては一応はロビーに当たる位置。直立する灰皿を隣に備えた、薄汚れた小さなソファーに、思いもかけない人物が一人で座っていたのだ。
赤いボンテージパンツに包んだ長い足を、片足を腿に乗せる足組みをして、黒いロングコートの襟元に、赤い髪が縁取る白すぎる顔を埋めて――八神庵が、そこにいた。
「……あれ、ま……」
軽い驚きを口にして、社はふと天井際の時計を見上げた。
時刻は14時少し過ぎ――真昼間である。
顎に手を当て、考えるような仕草で時計を眺める社を、庵がギロと睨み上げた。
「――ん? あぁ悪りぃ……」
常人ならば竦み上がる眼光だが、目線の意味をきっちり読み取った社は、苦笑をもらしてドアを閉めた。
再び目線を前方に戻し据えながらも、何も映していないであろう無表情の庵を見遣り。社は野生動物に近付くような慎重さでその傍らへと歩を進めた。
「何、お前らもここでやってたんか」
どこからも何の音もしない。庵の隣りには立てかけられたベースがあるだけで、とりあえず近くには誰もいない。
練習は終わった後なのだろう。庵が今所属しているバンドはどこかは知らないが。社は返ってこない反応を待たずに胸で結論付けた。
それにしたって珍しい、と社は感想も付け加える。
真昼間。それも雪が残る真冬日に、庵を外で見かけることなんて、意外もいいところだ。
バンドマンといったって、庵の場合、表向きは全く練習熱心なタイプではない。約束をすっぽかすのはしょっちゅう、日中と冬季はほぼ全滅だ、というのが社の耳にも入る噂である。――もっとも音に関しては、陰では相当弾き込んでいるのは聞けばわかるが、おそらくは気が向いた時、一人で延々と気が済むまで弾いてるような感じだろう。
――どんな気紛れが起きての行動なのか。今夜は雹でも降るんじゃねーの、と社は少しの興味と疑問を流し。
「まだ何か、あるのかよ?」
今度は返事を要求するように、社は壁にもたれた身体を僅かに傾け、隣りの庵の顔を見下ろして言った。
あと一時間ほどで、自分たちの練習が始まるのだ。その後に予定しているライブのための。
……まさか、聞きに来たわけじゃ、ねえよな。
否定には、微量な期待が含まれていた。
勘付いたわけではないだろう、けれど絶妙なタイミングで、
「――ない」
きっぱりとした応えを庵が返してきて、社は心中の項垂れを意識して自嘲した。
「じゃ、何してんのよ」
……やっぱりコイツは好きになれない。過ぎった思考が表れた、幾分迷惑気な声を社は出していた。
庵の、彩度を落とした緋色の繊毛の睫がチラと揺れ、藤色に近いような薄い唇が更に引き結ばれた――ように、社には映った。
無言の間は、躊躇のように、感じられた。
「――待っている」
低く呟くように、庵が言った。
瞬き、一つ。社はした。
「……あぁ。なるほど、ねぇ……」
したり顔の、意地の悪さを帯びた表情で社は喉で笑った。
「相変わらず、仲良しこよしなわけだ」
「……死ね」
顔に長くかかる赤い前髪を揺らして庵は不愉快そうに目を伏せ、社はククッと嘲笑をもらした。
……★……☆……★……☆……★……
白を基調としたシンプルさに、そこはかとない豪奢さが漂う広々とした室内にやって来た闖入者は、玄関を抜けるなり短く、
「紅。車借りるぜ」
言いながら既に、勝手知ったる厚かましさで壁脇のキーボックスを漁っていた。
午前9時。
時差ボケで眠気が覚めやらない様子の二階堂紅丸は、それを半ば呆然と眺めてから溜息をついた。
「京、来るなら連絡ぐらい入れてくれよ」
「――あ? 意味あんのかよ」
いるの知ってたし、と唯我独尊主義な草薙京が面倒そうに言葉を続ける。
「俺様は、寝起きに人を迎える趣味はないんだよ」
迎えるような相手じゃないけどマナーだろ、と紅丸は諸手を挙げながらソファーに沈む。
「どこに行くんだ?」
リモコンで遮光レースのカーテンを開け、雪が残る外の景色を目にして紅丸は訊ねた。
「あ? 行くってほどでもねえよ。送迎だけ」
「あっそ……」
欠伸を噛み殺して紅丸は頷いた。
……つまり俺様は、送迎者の都合のためだけに起こされたわけね、と胸で呟く。
傍迷惑な行動はいつものことだから、文句を言うのもバカらしい。さっさとお帰り願おうと、紅丸はキーボックスを指差した。
「スタッドレス履いてるのは、右の二つ」
街中なら、と車種を告げると、京は即座に一本の鍵を手にした。
「じゃ、借りてくぜ」
軽く手を上げ、用件は済んだとばかりに京はさっと身を翻した。その背中の黒ジャケットに刻まれた日輪紋が紅丸の目に留まって、何とはなしに。
「元気にしてるのか」
「あ? まーな。それなりに」
肩越しに京が答えた。
「たまには顔出すように言っといてくれよ。当分、日本にいるし」
帰るのだろうと、ヒラと手を振って言った紅丸に、しかし京は足を止め、目端を吊り上げた。
「――顔ォ? ……何でだ……?」
紅丸はローテーブルに散らばった留守中の手紙やらを適当にいじっていたので、京の目つきにもワントーン落ちた声調にも気付かなかった。
「何でって、別に用はないけどな? たまにはのんびり、酒でも呑みながら話をするのも悪くないだろ――って、何だよ……?」
陽光の欠片を閉じ込めたような大粒の京の目が、訝しむように細められていて、紅丸は軽くたじろいだ。
「……それだけかよ?」
「それだけ、だが……?」
じっと探るような京の目線に、紅丸は閉口し、次いで呆れを見せた。
「あー、京。お前が来れる時、一緒にな!」
言って、もう帰れと紅丸は指先を揺らして示した。
途端に京はムッと片頬を引きつらせ、尖った目のまま背を向けた。
「おう。ま、気が向いたらな。――じゃあな!」
ドスドスと足音も忙しなく京が出て行き、残された紅丸はやれやれ、と両手を広げて嘆息した。
……★……☆……★……☆……★……
有刺鉄線が張られた空地が目立つ区画を抜け、京は一棟のマンションの前で車を止めた。
外観と造りだけはそこそこ整った、真新しいマンション。
人気のなさが、どことなく廃墟じみた印象を持たせるが、京は気にした風もなくエレベーターホールへと入っていく。
このマンションの最上階、五階にある一室が、京の現在の住居なのだから、当然だった。
資金難で数年前から開発が止ったままのこの街に、住民はあまりいない。
しかもこのマンションは、ガラの悪い連中の夜の溜まり場になった時期があり、ちょっとした傷害事件が起きたため、元々少なかった居住者の殆どが出て行ってしまったのだ。
位置的には都心部に近いが、交通網等やらの利便性は低く、治安はよろしくない。
そんなわけでこのマンションは現在、家賃は格安、しかも保証人なしで契約できるという条件を提示していて、京にとっては実に都合の良い物件だった。
京がエレベーターを降りて部屋に戻ると、エアコンで暖まった空気が出迎えた。
玄関からリビングの、閉められたことのないドア枠を跨ぎ。京は数少ない家具の一つ、ソファーとともに中央に置かれたガラスのローテーブルに紅丸から借りてきた車のキーを放った。
壁の時計を確認すれば、時刻は9時半過ぎ。
脱いだジャケットもソファーに投げ、京は大股でキッチンに行く。
シンクに溜まった食器に顔を顰る。そろそろ洗わなければ、どうにもならない。
「ま、後でいっか……」
ハァ、と声に出して嘆息し。京はコーヒーを淹れる準備にかかった。
リビングがコーヒーの匂いで満たされる頃、シンクに溜まっていた食器の片付けが終わった。
京はハァ、と息を吐いてダスターで手を適当に拭うと、リビングの隣りの、寝室にしている部屋のドアを開けた。
カーテンで閉ざされたままの、クローゼット二つとキングサイズのベッドしかない部屋は薄暗かった。
京は音を立ててカーテンを開け、微動だにしないベッドの膨らみに目を向けた。
「おい、庵。起きろ」
言いながら、ベッドの縁に腰を下ろす。
上掛けに埋もれた枕に散っている赤い髪を梳くように撫でる。
「出掛けるんだろ? ――紅丸から、車借りてきてやったからよ」
身動ぎする気配に京が赤い髪から手を離す。
上掛けに埋もれていた白い顔が現れ、朱と金が入り混じった虹彩のきつい眼が京を射る、が。
やや縦に長い緋色の瞳孔は何も映しておらず、京は小さく笑った。
「起きろって」
声には仄かに甘さが滲んでいた。ぼんやりしている瞳孔を確認しながら、京は庵に顔を寄せて口付けた。
寝起きで意思のない唇を容易く開かせ、舌を差し入れる。
誘うように絡ませて、緩慢だが条件反射のように蠢きだした舌を、京は存分に味わう。
漏れ出した幾度目かの水音で、庵が小さく吐息交じりの声を上げ、京は唇を舐めて満足げに顔を離した。
「……起きたな?」
まだぼんやりしているが、眼光に無言の抗議が含まれているのを認めて、京はニッと笑って立ち上がった。
「12時には着かないとまずいんだろ?」
京はクローゼットの一つを開け、適当に引っ張り出した服をベッドに投げる。
「――寒い」
気怠げに身を起こした庵が、ぼそりと言う。
「起きがけだからだろ。エアコン、28度だぜ?」
「そうか」
未だぼんやりしている庵の様子を、京は何とも甘やかな表情で暫し見つめた。
車内では、会話らしいものは全くなかった。
エアコンがかかっていても、ガラス越しの冷気が寝たりない庵の機嫌の悪さをチクチクと募らせていたからだ。
それでも京は、機嫌良さげだった。
ライブスタジオの前で庵を下ろすと、
「じゃ俺、買物してくるからよ。終わったら迎えに来るわ」
ウインクする京に、庵は嫌そうな一瞥を投げた。
京はそれに笑ってアクセルを踏む。少し進んでサイドミラーを確認すれば、庵は降りた時の姿勢のままで京が乗った車を見据えていて、京はフッと微笑んだ。
……★……☆……★……☆……★……
「――今日の講義は午後からだし、付き合おうか?」
ファーストフード店で、向かいに座ったショートカットの少女……、というには大人びた雰囲気を纏うようになったユキが、小首を傾げて京を覗き込む。
京はユキが持ってきた料理本のレシピを睨んでいた。
「……どこへ」
「買物、行くんでしょ?」
「ん、あぁ……。行くけど」
京は料理本から目を離さずに頷いた。
スーパーに入ると、京は慣れた様子でカゴを手にした。ユキは少し目を丸くしながら隣に並んだ。
「いつも、一人で買物してるの?」
「まあ、大体はな。たまに、着いて来るけど――欲しい物がある時ぐらいだぜ」
たまにアイツ、変な物欲しがるんだよな、と京が続けて、ユキが首を傾げる。
「変な物って?」
「こないだは、カスピ海ヨーグルトだったっけな? その前は、生姜の浅漬けみてぇの」
「脈絡ないねー」
ユキが笑った。
「だろ? 大体、着いてくるようになったのもさ……、飯ン時に、『あれはないのか』って言ってきてよ。何だって訊きゃあ、『テレビで最近やってるやつだ』って偉っそうに――わかるかよ!」
不平を並べながらも、京の手はキャベツだニンジンだのを取ってはカゴに放り込んでゆく。
ユキはアハハと笑いながら、京のジャケットの袖を引っ張った。
「あ! 京、ナス安いよ。麻婆ナスとか、どう?」
面倒だったら縦に切って、しょう油ベースの調味料かけてトースターとかレンジでチンして、かつお節かけるだけでも美味しいよ、とレクチャーする。
「ほー、それなら楽そうだな」
でもアイツ、野菜そんなに食わねえんだよなー、作ったら食うかな、と前髪をかき上げながら京はナスをカゴに入れた。
それから少し周りを見渡して、長ネギを取った。
「今晩のメニューは決まってるんだ?」
「寒いからなー、今日は鍋。……これが一番楽なんだけどな。続くと、飽きたとか抜かしやがるしよー。ったく、文句があるならてめえでやれっての!」
肉コーナーに移動した京は、煮込み用の牛肉をカゴに放った。
クスクスと笑い出したユキを、京が怪訝と振り返る。
「……何だよ?」
少し警戒の色を見せる京に、ユキはますます笑みを強めた。
「京、すっかり主夫だなあー、って思って。愚痴りながらも、ちゃーんと好きな物買っちゃったりして。すっごい変わり様だよねー!」
「バッ……!! 好きでやってるわけじゃねえよ!!」
ユキの言葉と、意図せず口にした自分の言葉の両方で、京はボッと赤面した。それを隠すそうと早急に京はユキに背を向け、歩幅も大きく鮮魚コーナーに向かっていった。
ユキは笑いながら、のんびりついていった。
大学の前で車を降りたユキは、京に手を振りながら構内に向かった。
駆け寄ってきた学友二人が両側からユキを囲む。
「ねえねえ、あれってユキの彼氏!? 格好いいじゃん!!」
「どっかで見たことあるような気がするんだけど、もしかして有名人!? 紹介してよ!!」
興奮気味の学友に、ユキは苦笑する。
――昔っから、そうなのだ。
京は目立つ。裏では結構派手に遊んでいるくせに、京は自分の生活圏内で過度に騒がれるのは好まなかった。
ユキは京が昔、頭の上で両手を合わせ『彼女ってことにしといてくれ』と頼んできた姿を思い出して、小さく笑った。
「違う違う、仲良しの親戚だよー。それにアイツ、付き合ってる人いるし。もう殆ど連れ合い状態の。残念でしたー!」
……嘘ではない。草薙の始祖に連なる、クシナダなのだから。
ユキの言葉に、学友二人は落胆の声を上げた。
京はユキが入っていた大学の建物を、高校とはやっぱ違うなと物珍しげに眺めていた。
――それがいけなかった。
「あら、草薙」
「ここで何をしているんだい? アンタには無縁の場所だろ。用が済んだのなら早く消えな!」
マチュアとバイスだった。
揃ってモノトーンの、KOFで見るより露出を抑えたスーツで長身にして抜群のプロポーションを包み込んでいる。
京を見る二人は、美貌に嫌悪の色を湛えているが、京も負けずに嫌そうで不信感もあらわな表情になって二人を眺めていた。
「……てめえらこそ、何でここにいるんだよ?」
マチュアとバイスは同時にフフン、と鼻で笑った。
「非常勤講師をしているのよ、私達」
「女と遊んでいる暇があったら、アンタも少しは勉強したらどうだい? せめて高校を卒業できるくらいにはさぁ!」
見下して笑う二人に、京が唸る。
「るっせー! 関係ねえだろうが!!」
当然、その程度では二人は怯みもせず、逆に目を光らせて嫣然と笑む。
「あら、そんな口利いていいのかしら?」
「八神に教えてやらなくちゃな。お前が女とヨリ戻してるって」
バイスがケータイを取り出したのを見て、京がせせら笑った。
「バーカ、ヨリも何も、最初っからそんな関係じゃねえんだよ。ユキに訊いてみろよ」
が、ふと笑みを止め。
「おい、何でてめえらが八神のケーバン知ってるんだよ?」
凄む京に、二人は顔を見合わせ、同時に京に向き直った。
「訊いたら、教えてくれたわよ?」
「普通に、あっさりとな?」
京の額にたった青筋が、ブチッと切れた。
……★……☆……★……☆……★……
階段を下りてくる足音は、地下の室内に響くほど大きかった。
ついでに、
「八神ィィ――……ッ!!」
という獣の咆哮のような声まで轟いていた。
だから蹴破られる勢いでドアが開いても、中にいた二人は驚きもしなかった。
逆に、部屋で更に怒鳴ろうとしていた京の方が、居並ぶ二人のうちの一人に、目を見張る羽目になった。
「なっ、七枷……!?」
固まる京に、社は鷹揚に片手を上げた。
「よう! 草薙の当主。お迎えご苦労さんっ!」
庵は不機嫌極まりない顔をしていた。
蹴るように大股で進み、京を押しのけて出てゆく。
「ちょ、おいっ! 待ちやがれ、八神ッ!!」
肩をそびやかして階段を上っていく庵の姿を見、京は社を一睨みしてからその後を追った。
地上に出た庵は京が何かを言う前に、止まっていた車の助手席に荒々しく乗り込んだ。
京はそれをポカンと眺め、その表情のまま忙しなく運転席におさまった。
怒りで一層蒼白な庵の顔を、京は覗き込む。
「庵……?」
「――遅い。それから人の名をあんな大声で叫ぶな、喧しい」
冷たく燃える眼光が京を真正面で捉え、射抜く。
その眼差しで、先刻まで京の脳裏を滾らせていた怒りは、跡形もなく消えていった。
「……何をにやけている」
怒りに薄気味悪さを加えて、庵は京を見据えたまま言った。
「ん、あぁ……、何でもねえ――帰ろうぜ」
京は人好きのする笑顔を返して、エンジンをかけた。
流れる風景を視界に映しながら、庵が口を開いた。
「……女と過ごしていて遅れたのか」
京は正面を向いたまま頷いた。
「あぁ、ユキな。お勧めの料理本があるって言うから、ちょっと会ってた。礼代わりに大学まで送ってやったんだけど、道混んでてさ。……悪かったな。――バイスから聞いたのか?」
「メールが来た」
ふーん、と面白くなさそうに京は言い。
「あいつらが大学講師とか、世も末だぜ。……つーか庵、あんな奴らにケーバンなんか教えるなよ」
ミラー越しに庵を見る。互いのきつい視線が合う。
「別に、構わんだろうが。嗅ぎ回られるよりマシだ」
庵の言葉で京も、本気になればどんな情報でも暴きあげる連中だということを思い出した。それでも、口を曲げた。
「そうかもしれねえけどさ、もーちっと……。まあいいや。けど、あんま奴らと馴れ合うなよ?」
ハッ! と庵が呆れきった息を吐いた。
「貴様が言うな」
「どういう意味だよ」
低くなった声で、京が本気でわかってないのだと庵は悟った。
「さあな――少しは自分で考えろ」
それきり窓へと顔ごと向いて庵が口を噤んだので、京も疑念を抱えたまま沈黙した。
……★……☆……★……☆……★……
ガラスのローテーブルは、空になった鍋と食器で埋まっていた。
キッチンへ食後酒を取りに行ったはずの京は、ケータイを耳に、かかってきた電話の相手と喋り続けている。庵はソファーに寝そべった。
「あー、マジサンキューな。しばらく借りときたいんだけどよ、この辺じゃ危ねえよな……。あ?
今日はとりあえず貼り紙しといたぜ?」
荒らしたら燃やす!! と名前書いてよ、と得意げに話す声に、庵は鼻で一笑して目を閉じた。
……俺は一体何をしているのだ、と。
自問ではなく、単なる感想のように、庵の脳裏で言葉が過る。
庵の中には、憎悪も殺意もある、今も変わらず。
京にも変わらずにあるものが、ある。それが何かを、庵は知っている。
己が存在をかけて対峙する相手には、二度と立ち上がれなくなるほどの敗北に追い込み。心を、魂をへし折り潰したいのだ、あの男は。
――相容れる、はずもない。
ひたすらに激突を繰り返し、その狭間で、滾る血の赴くまま、絡み喰らい合うように過ごしたこともあった。
でもそれすら恐らく、対極にあり続けるための刹那の交わりだったのだ。
変わった、わけではない。……ただ。
甦る、情景は。
黒煙と蒸気、血と透明な液体に満たされた、部屋。
幾百もの、同じ顔。
『オリジナル』とラベリングされて並ぶ、数多の密封された試験管――
叫んで、叫んで。その場の全てを破壊して。
力を出し尽くして、頽れかけた、時……。
「――庵」
呼ぶ声に、庵はうっすらと目を開ける。
映る、黒髪。太陽を封じ込めた黒瞳をおさめた、凛と強い面差し。
「……京……」
ぼんやりと、庵は手を伸ばす。その手を京がやんわりと握る。
「寝るなら、ちゃんとベッドに行けって……、おい!?」
京が握った庵の手に力が入り、引かれる。庵の空いた片腕が、折り重なるように上半身を庵の上に伏せた京の首に巻きつく。
「い、庵……?」
軽い驚きと戸惑いで京は庵の顔を覗き込む。
庵は皺を刻むほど強く瞼を落としていて、その仕草で京は悟って庵の背に腕を回した。
「――俺は此処に、いるだろ……」
確信させるように、強く抱き。
また自らも腕の内にある存在を、確かめるように。
京は首を傾け、庵に深く口付けた。
「――……京……」
泡沫の、境地。
……耳に甦るは。
永久の闇を切り裂いた、身魂の叫び。
昏迷の身体を、血の炎を呼び起こした、声――
それこそが、自身の真理だと。
否定の余地など、どこにもなかった……。
(――此処に、居るから……、お前も、此処に――……)