【累々舎】京庵・SS

累々舎

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Lost of direction

15分前から降り出した氷雨は、槍に変わっていた。
……喩えじゃない、現実的にだ。と、京は胸で呟いて一人頷く。
15分というのもそうだ、と。ザアザアと、滝壺に落ちる水音そっくりの雨音から必死に意識を逸らせて、京は記憶を探る。
半端に鬼焼きを喰らって片膝をついて立ち上がろうとしたら、庵が頭上で両手を交差させているのが見えた。
やべえ、今喰らったら確実にダウンだ。今日こそ殺される、だろう。……或いは――かも知れない、か。
どちちもそう、変わらないが。
庵が掲げた白い両手に生まれる刹那の閃光が、京の目には僅かにスローモーションじみて映った。
走馬灯現象か、やっぱり死ぬのか。
そう思った瞬間、血が発火するような感覚が生じて、京は半ば無理矢理、大蛇薙を繰り出した。
構える暇も溜める暇もあったもんじゃない。だから正確には大蛇薙ではない。言えば庵に嘲笑されるだけでは済まないだろうから、技を繰り出す時の決まり文句も歯を食いしばって噛み殺した。
それ、は。
……いつだったか。何処かに紛れ込んで参加する羽目になった何かの大会で、白胴着の裸足の鉢巻男との試合前に、挨拶代わりに見せた――技ともいえない、火の玉を飛ばす程度のそれ、だったが。
庵の技のタイミングをずらす程度の効果はあったようだ。
とりあえず京は八稚女を喰らわずに、庵から距離をとって態勢を立て直すことができた。
「何だ、今のは」
不機嫌の極みといった表情と低い声で庵が言った。
「新技のつもりか、バカめ」
八稚女は外したけれど、庵もダメージを受けたわけではない。高圧的に鼻で嘲笑する。
「そう見えたのかよ? てめえも大概だな、八神」
仕切り直しに充分な位置で構えた京も挑発的な笑みで返す。
ジリ……ッ、と。二人に降り注ぐ雨粒が瞬時に蒸発していく音を、二人は同時に、聞いた。

――それから、どうしたっけ? ハァと肩でつく息は、白い靄になって宙に浮かぶのに、京は寒さを感じなかった。
庵に触発され、或いは触発させるために、どこまでも高まっていく紅蓮の闘気が、京の全身の熱を物理的にも上げている。
頭の芯まで燃えそうだぜ、と口の中で呟く。
耳とか指先とか、身体の先端のごく僅かな場所で――当たった時にだけ感じる、凍るように冷たく降り注ぐ雨は、もはや雨粒などという可愛らしいレベルではない。
槍だ、と京は改めて思う。槍が無数に降ってるじゃねえか、と続ける。そして少し先にいるはずの庵の姿が、目を凝らしても影絵にしか見えないほど、視界が利かない。
「……どーすんだよ」
今度は、声に出して京は言った。
さして大きな声ではない。呼びかけるために発したのではないけれど、庵の耳には届いたはずだと京は確信する。
全身の熱は熱くなるばかりだ。
黒目がちの京の燃える目が、庵のシルエットの動きをどうにか捉えた。
庵は白い半貌を覆う赤い髪を、しきりに後ろに掻きあげている。文字通り、バケツをひっくり返した雨の中だ。頭蓋骨に沿ってぐっしょり貼りつく濡れ髪が、何故に上げても上げても顔の前に落ちてくるのか。
薄い舌先で、庵はチッと鋭く舌打ちする。
苛立たしさで、庵の闘気が一層増した。寒いのか熱いのかさえ、知覚できないほどに。
「――知ったことか」
独り言のように、庵が低く小さく言う。
京の言葉に返したのか、半貌の前を定位置と頑なに決めているらしい赤く長い前髪に対してなのか、鈍くなった感覚にかは、わからない。
それすら庵にとって発した言葉通りの心境なのかもしれないが、京が自分の声を聞いたことだけは、庵も知っていた。

互いに闘気だけ高まって、互いが操る炎色の陽炎が否応なく広がる。
だのに、身動きすら出来ない。
――服が重い。と庵はぼんやり思う。京も、また。
冬服なのだ。二人が着る、コートもジャケットもその下の服も下着の中まで、身に着けているもの全てが水を吸っている。
ふと。どこかで、何かが軋む音がした。
ハッと、二人同時に振り仰いだ時。
二人の位置の真ん中に直立していた時計塔のガラスが、派手な音を立てて割れた。

「…………」
「――……帰るか」

ガラスが地面に散る音に重ねるように闘気を消して、京が気の抜けた声で言う。
土台、街は一般人向けに設計されているのであって、二人の膨大な熱量には耐えかねるのだ。
「……興がそがれた。命拾いしたな、京……」
いつものことなので、京は顔を歪めて舌を出す。
「いい加減、諦めろよ。……てめえに言っても無駄なのはわかってるけどよ」
「――ならば無駄口を叩くな。耳障りだ!」
きつい恫喝を置き土産に、庵が京に背を向けて歩き去ってゆく。
それを京は見るともなしに、見送って。
京は、家に帰った。

玄関前にバイクを置けるから、という理由を決定打にして京が借りたマンションは、都心部まで鈍行電車で40分、最寄り駅からは徒歩20分という、利便性はあまり高くない地域にあった。
京の部屋は、五階建ての最上階。エレベーターからも非常階段からも一番遠い、西端の隅。
玄関を開けて鍵を閉め、京は廊下が濡れるのにも構わずにドスドスと足音を立て、洗面所に直行した。
濡れた服を脱いでは洗濯機に放り込み、全部入れたところでスイッチを入れる。
京はすぐ横のバスルームに入り、熱いシャワーを浴びた。

シャワーを終えた京は、Tシャツとジャージのパンツを身に着けて、頭にタオルを乗せてリビングに行った。
エアコンを入れて、冷蔵庫からビールを取ってリビングの一番端の窓辺に移動する。
小さなバルコニーの奥の外の風景は、周りに同じようなビルが並んでいるせいで、さして見栄えはしない。
雨は相変わらずの勢いで降り続いている。
京はプルタブを開けて、ビールを喉に流した。

すっかり暖かくなったリビングのソファーにだらしなく凭れ、京はバイク雑誌をパラパラとめくった。
今月号だから、めぼしい記事は買った週に読んでしまっている。新刊が出るまでにはあと4日ほどの期間がある。
フーッと、溜息ではない息を吐いて。京は時計を見上げた。
16時半、少し前。
――庵と別れて、1時間半ほど。
フゥ、と。京は顔を顰めて、今度は明らかに嘆息した。すっかり乾いて艶やかな色を取り戻している黒髪の後頭部をガシガシとかく。
薄く埃がかぶったガラスのローテーブルに雑誌を放り、京は勢いよく立ち上がって、窓辺へ行った。
外は、街並みも空も重い灰色に沈んでいて、雨は一向に止む気配がない。風が出てきたのか、激しさは増しているように見える。
舌打ちと溜息を漏らして、京はリビングの隣りの寝室に向かう。
クローゼットからライダースーツを引っ張り出し、着替える。
「……ったくよぉ……」
呆れ声で言って、京は玄関に行く。シューズボックスの上からバイクのキーとヘルメットを手に、外に出た。

視界が利かないから、ゆっくりと。
車道を流して10分。京は先刻、庵と戦った公園に来ていた。
周囲を回って、それからエンジンをかけたまま、一旦止まる。
ハンドルに肘をつき、何かを待つような、考えるような姿勢をとる。
きっかり5分後、京は再びバイクを走らせていた。
脇に商店街がある道を走らせ、おもちゃめいた家が立ち並ぶ住宅街を抜け。
陸橋の途中。歩道に近付くと京はバイクから降り、眼下の川と土手を眺めた。
ヘルメット越しの目を、川の果てを見るように遠くする。
……何かに気付いたように、京は再びバイクにまたがり、エンジンをかけた。

徒歩や自転車ならきついであろう傾斜の、長めの坂を上りきると、小学校だか中学校だかがあった。
近くに、寂れた趣の文房具屋。澱んだガラスに閉ざされた薄暗い店内の様子は窺えないが、奥の部屋から漏れる明かりが僅かにあるから、一応は営業しているらしい。
店の脇を少し進むと、小さな十字路と、白線が途切れかけた横断歩道。
その上に、必要性をあまり感じない、小さな歩道橋がかかっていた。
――その歩道橋の階段を、雨よけにして。
庵は、打ち捨てられたマネキンのような風情で、それでもどこか泰然と、佇んでいた。

バイクにまたがったまま、京は庵に近付き、ヘルメットをとった。
眉根を寄せた不機嫌顔を庵に向ける。
「……来いよ」
「断る」
間髪入れずの、潔い拒絶。
ツンと正面に向けられたままの仮面じみた無表情に、憂いにも似た陰影が落ちている。
庵はやはりぐっしょり濡れたままの格好で、髪もぺたりと糊付けたように固まったままだ。
白すぎる肌は淡いグレーを刷いていて、薄い唇は褪せた水色になっている。
その口先のごく僅かな震えを認めて、京の眉間の皺が深まった。
「いいから、乗れ」
強い語調と同様に、京に乱暴に腕を引かれて庵の身体が傾ぐ。朱色の双眸に怒りが走る、が。
「――二度は、言わねえぜ……?」
黒瞳に宿った昏い眼光に、庵が忌々しげに閉口する。
睨みあうこと、2分弱。

タンデムに庵を乗せて、京のバイクは帰路を辿っていた。

バタン! と荒々しくドアが開かれ、ガチャン! と甲高く鍵が下ろされる。
ずぶ濡れの京が通った廊下は既に乾いていたが、すぐに二人分の濡れた足跡がつけられた。
庵の腕を取った京が、バスルームに庵を押し込んで、重く濡れたコートを剥ぎ取る。
濡れた服の行き先として京は洗濯機を開け、中身が入ったままだったことに気付いて舌打ちし、空のバスケットに庵のコートを押し込める。
続いてシャツを脱がせようとして、庵が仏頂面で京の手を払った。
「……いちいち世話をするな。――失せろ!」
低い、庵の一喝に。
京の頭の中のどこかが、ブチン、と切れた。
「……て、め、え……!」
ブルブルと、京の肩が、両方とも握りこんだ拳が震える。
歯を見せて小刻みな震えを見せる京の口がヒュッと息を吸い込むのを、庵の目が捉えて細まる。
次の、瞬間。
「――いいっ加減にしやがれっ!! てめえ一人で帰っても来れねえ奴が、偉っそうにほざいてんじゃねえっ!!」
怒号が轟いた。
バスルームである。
京の怒鳴り声にはエコーがかかって、かなりの迫力があった。……内容は、いざ知らず。
不興そうな庵の胸元に指先を突きつけ、片腕は腰に手を当て、京は続ける。
「俺は『帰るか』って言ったよな!? 毎度毎度、帰って来れなくなるくせに――何で大人しく着いてこねえんだよ、てめえは!!」
「帰れなくなったわけではない! 休んでいただけだ!!」
庵も声を張って反論した。
僅かに錆を含んだ居丈高な低い声といい、ギンと京を睨み据える眼光といい、いつも通りなのがいっそ見事と賞すべきだろう。……言葉の内容を、鑑みるならば。
京の額に青筋が走って、口元が般若めいた笑みを象る。
「……ヘェ――休んでいた、ね……。じゃあ当然、てめえがいた場所は把握してるよなあ……?
住所ぐらい、当然っ、言えるよな……?」
「――ッ!!」
庵の顔に朱がのぼる。京を睨み上げながら、少しだけ色を取り戻した下唇をキュッと噛む。
「言ってみな? 庵サンは何処に居たんですかー?」
ニヤニヤと怒りを含んだ底意地の悪い笑みを貼り付けながら京は庵の首筋を掴み、顔を寄せる。不愉快そうに、庵の柳眉が数ミリ吊り上った。
「黙ってちゃ、わからねえよ……?」
拳を作った庵の手が、ブルブルと震える。――そしてカッと瞳孔を細くして、庵が口を開いた。
「俺が、知るか――ッ!!」
「やっぱ迷ってたんじゃねえかっ!! てめえマジ騙ってんじゃねえっ、燃やすぞコラァ!!」
「やれるものならばやってみるがいい!!」
吼えて伸し掛かるように拳を振り上げた京に、庵も背筋と膝に力を籠めて不安定な姿勢を保ち、拳を握って怒号した。
「貴様こそ灰に変えてやる……! 血染めの、真っ赤な灰に――」
――ビーッ、ビーッ、ビーッ!!
掴みかかり拳を振り上げた二人の頭上で、電子音が鳴り響いた。
『火事デス、火事デス、火事デス――』
またもや三度の電子音の後。天井のスプリンクラーが作動して、二人に降り注いだ。
「…………」
「…………」
互いに無言で、視線を合わせたまま。庵は鼻を鳴らし、京は溜息をついた。
「――何か今日は、濡れる日だなァ……」
疲れたように京が言い、
「貴様のせいだ」
にべもなく、庵が言い捨てる。
それをハイハイ、と肩を竦めて聞き流し。つと、京は片眉を上げた。
「俺のせい、ね……。んじゃ、ベッドでも濡れとくか――?」
「死ねッ!!」
瞬時に飛んできた光る爪先の手を、京はきっちり読み通りの位置で引っ掴み、庵の腰を抱いて壁に押し付けた。
「まぁ、たまにはいいじゃん――大いなる自然の摂理に従っとこうぜ……?」
低く耳元で囁かれた声を、庵は頬を歪めて鼻で笑い。
窺うように寄せられた唇を、しかし黙って受け入れた。





【2015/03/16】
書き散らしているうちにこんなん出来ましたケド〜! という感じです笑
何か、庵サンって色んな所をフラフラしてますよね。
それで何か、もし庵サンが方向音痴っつーか、『何処でも行くけど来た場所に戻れない』体質だったりしたらどーなるんだろうか、という妄想から生じた産物、な模様。
でも自分的にこの設定は気に入ったので、シリーズ化して書き散らせたらいいな〜っと笑

――風邪をこじらせ、休んでる最中に何をしてるんだ……。

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